科学コミュニケーション

みなさんこんにちわ、博士課程の大久保です。先日の北海道自身は皆さんご無事したでしょうか。被害に遭われた方の一刻も早い復興をお祈りしております。私は地震の時、ちょうど北大の派遣プログラムでフィンランドまで行き科学コミュニケーションに関するワークショップを受講していました。今日はその内容について批判的に紹介してみます。

最近、科学研究の場でアウトリーチや科学コミュニケーションの重要性に関して見聞きした人もおおいかとおもいます。では、そもそもなぜ科学コミュニケーションの重要性が指摘されているのでしょうか?このことを考えるために、まずは科学コミュニケーションに関するごく簡単な歴史から紹介したいと思います。

歴史上、最初に科学コミュニケーションに関する考察が始まったのは1980年代のイギリスだと言われています(例えば[標葉 2016])。この頃のイギリスでは、世間における科学に対する不信感が問題になっていました。例えば原子力エネルギーや遺伝子組み換え食品、病気に対する予防ワクチンの接種などは、社会生活で大きく役立つ技術ですが、一歩間違えると大きなリスクを伴うものです。当時のイギリス社会ではこれら技術に対する不信が根強く残っていたわけです。当時の王立協会のメンバーたちは、人々が科学に対する信頼を失えば科学者が十分な研究費を獲得することができなくなり、ゆくゆくは研究活動ができなくなるのではないか、と危惧し始めます。彼らは行政や科学関連企業も巻き込んだ対応策を練り始めることになります。

ところがこの時、彼らはある重要な前提を暗黙理に仮定していました。それは、「人々が科学を信用しないのは、彼らが正しい科学的知識をもたないからである」というものでした。そのため、科学研究の知見に関する「正しい」知識を、市民に「教えてあげる」には、どうすればよいのか、という問題意識が生まれ、これが現代の科学コミュニケーションのルーツとなったと言われています。

しかし、この説明をみて《「正しい」知識を、市民に「教えてあげる」》という表現に違和感を感じた方もすくなくないとおもいます。ずいぶん傲慢というか、一方的な押し付けのような感じがしますよね。実際上記のような初期のコミュニケーションのあり方は、「一般市民とは合理性を欠いた存在である」と見做している意味で「欠如モデル(information deficit)」と呼ばれており、後々科学コミュニケーション研究で強く批判されることになりました。

つまり、科学研究の内容を一方的に伝達することをめざしているわけではない、ということが科学コミュニケーションの重要な点といえるでしょう。

さて、話をワークショップの内容に戻しましょう。今回のワークショップの話題は、プレゼンテーションにおけるビデオやSNSの活用法、政治家への対応法など非常に多岐に渡り、tipsの多くは非常に具体的で実践性を意識した内容でした。中でもビデオやSNSなど、非常に現代的な道具に関する議論がなされていたのが非常に印象的で、特にビデオ制作に関してはApple製の動画編集ソフトiMovieを使って

こうした道具をうまく活用すれば、効果的に自身の研究内容をプレゼンできるだろうと感じました。

しかし講義内容のほとんどが、「研究者の考え」を「伝達」する技法であったことは、指摘しておくべきでしょう。例えばビデオを使ったプレゼンテーションは、文章と異なり様々な特殊効果やや音楽の利用によって雰囲気や印象が大きく左右されると考えられるます。これは、研究をプレゼンテーションする側にとってはより柔軟な表現を可能にする一方、(意図的か否かにかかわらず)情報を受ける側の印象形成に無視できない影響をもたらす可能性がも考えられます。科学コミュニケーションが「“無知な”一般大衆に対して“正しい”科学的知識を伝達する」という考えに対する反省として進展してきた経緯を考えると、印象的な情報の伝え方だけでなくその影響力や危険性に関しても議論される必要があっただろうとおもいます。