教育
教育におけるキーパーフォーマンス:優れた遺伝子デザイナーを育てられる。
時間は有限・不可逆、皆に平等
一日は24時間。一般労働者が一日8時間働くとして、一か月(22日間)に176時間、一年間に(休暇分を除くと)平均約1800時間働く、35年間で63000時間程度である。誰もが例外なく、この限りある後戻りの無い時間を生きている。すなはち、時間は有限にして不可逆、あらゆる人に平等である。願わくば、この有限なる時間を「自分らしい、充実した、楽しい時間」にしたい。そんな人生を送るための猶予期間として与えられているのが、大学・大学院における時間だろう。それ故に、「研究室に配属された全ての学生に、正しい選択をしてほしい。そして、幸福を掴んでほしい。」と指導教官は願う。また、「そうした幸福を手にするにふさわしい学生で在ってほしい。」と願う。
理想的学生像
私が「そうした幸福を手にするにふさわしいと思う学生像」とは、私自身が「そう在りたいと願う人間像」でもある。それは「健康的で活力にあふれた肉体を持ち、清潔で、性格は明るくしかも穏やか、会話はウィットに富み、聞いて心地よく、人を傷つけない。考え方はいつも前向きで積極性がある。周囲の人間との協調性があり、後輩に対しては優しく面倒見が良い。親・先輩・恩師を敬い大切にする。生き方は愚直で誠実、勉学においては勤勉で努力を惜しまない。働き手としては、自分がしたいこと・自分にできること・自分がすべきことを自覚して常に知識を実践に生かす知恵を持ち、どんな苦境に立たされても問題解決の方策を見出し、目標の達成に向かって集団を活き活きと導くことができる人物」です。こんな人物なら、どんな一流企業も欲しがるだろう。上記のような人物が育つかどうかは、それまでの躾けや教育が重要なのはもちろんだが、大学に入学してからも、我々が「子弟愛」と「プレッシャー」を適度なバランスで日常的に与え続けることによって、「ある程度の手助け」はできるだろうし、そのような人物を我々自身が目指している姿を見せることも、役立つかもしれない。
勉学意欲
ところで、北大生は「そうした幸福を手にするにふさわしい学生」だろうか。毎年何十万人という受験生を、彼らの基礎学力の高低によって、序列化された大学に振り分けていくという現行の入試制度においては、受験生はできるだけ多くの知識を記憶し、試験場においてそれまでに溜め込んだ知識を一気に吐き出す能力を鍛えることに全力を尽くして大学入試に臨みます。従って北大には、上記の方法で測定した「基礎学力」の高い学生が入学してくる。こうした大学1-2年生に実習や講義のレポートを書かせることがある。すると、さすがに「ネット社会育ち」だけあって、ネット上に溢れる様々な知識(特にウィキペディアからの知識が多い)を上手に探しあててつなぎ合わせ、実にそつの無いスマートなレポートに仕立て上げて来る。こうした学生に、チョット意地悪く突っ込んだ質問をしたりする。すると、書いてあることが単なる知識の羅列であったり、それらが相互にどのように関わっているかをあまり理解せずに書いていたということを露呈する場合がある。折角、高い基礎学力を持ちながらも、打ち込むべき分野を見出せずに、浅い勉強を続ける不幸な学生を目にすることがある。
「興味」と「勉学意欲」
大学生の勉学に打ち込む原動力とはなんだろう。「興味」だろうか。私は名古屋大学では助手として、北大においても准教授として、卒論生や大学院生の教育に携わってきた。彼らによる論文詳解や研究の進捗状況の報告会でよく眼にするのだが、強制しないと質問もしなければ、意見も言わない、ましてや提案などもしない学生が増えている。こうした学生たちを問い詰めてみると、結局のところ、やっていること自体にあまり興味がないのに基礎学力が高いからこの大学に来て、研究が好きなのかどうかもわからないうちに就職活動に飲み込まれ、旧帝大の卒業見込み証明書の威力を頼りに就職活動に臨んでしまったりする。こうしたことに迷いを感じた私(当時40歳)は、その後、9年間のボランティア活動で行った、のべ60,000人程度の小学生を対象にした理科実験指導を通じて以下のことを学んだ。箇条書きにすると(1)「そのこと自体に興味が無ければ、勉学に活き活きとは取組めない。」、(2)「興味を育むためには、それを好きにさせるきっかけが重要である。」、(3)「興味は、やり方しだいでいくらでも育てられる。」、(4)「興味が無ければ、勉学に活き活きと取組めないのは大人も子供も同じである。」ということだ。我々が教育している学生たちは、社会に出るとエリートとしてみなされる宝物である。だから、ある程度以上の問題解決能力とリーダーシップを持つことが期待される。従って、これらの能力を彼らに付与し、社会から期待されるレベルをクリアーして卒業させることが、サービス業としての教育に関わる大学教師の社会的責務であろうし、何よりも彼らを幸福に導く方法だろうと思う。
「興味」をどう育むか
では、学生がもともと持っている「漠然とした興味」を、どのようにしてその周辺の知識を学ばせながら「興味の顕在化」をさせたらよいのだろう。「漠然とした興味を持ちうる範囲」というのが講義名であり研究室名として公開されている。学生は、まずそれを選択してくる。教師は、第一段階では必要な情報を提供し、周辺の知識を自学させる。第二段階では、それによって育ちかけた興味に則したテーマを提示し、これに取組ませる。第三段階では、子弟間・学生間の討論を通じた共同作業により興味を顕在化させる。こうして興味が育まれれば、学生は自覚的に成長しはじめ、さらに適度な「愛情のこもったアドバイス」が与えられることにより、優れた働き手として完成されていくはずだと思う(これが4年生から大学院生に用意されている教育である)。学部生の講義の場合でも、こうした教育が理想的で、「日本では、まだ一般に普及していないプロブレム・ベイスト・ラーニング(PBL)、すなはち課題解決型教育が、手間はかかるが学部生の興味を育む上で重要だと思う。手間をかけなければ良い教育はできない。そこまでやっても興味を示さず、勉学に励まない学生には、「ここに居るのは時間の無駄遣いだから、ここを出て、別の道を探す」ことを勧める。
「考える脳」と「考えない脳」
「考えない脳」の持ち主は怠惰で、「疲れる、かったるい、面倒くさい」などと、いつもつぶやき、社会に従属して生きてゆく人となる。興味が無いから、積極的に勉強したいとも思わない。社会に出て何かをしたいという強い気持ちがあるわけでもない。就職活動といっても企業に入って何をやりたいのか、はっきりとは答えられない。だから、とりあえず判断を先延ばしするために大学や大学院に進学する場合がある。だから院生になっても研究に身が入らず、研究室にいても、インターネットでお気に入りのサイトを眺めたり、友達にメールを書いたり、おしゃべりをしたり、ツイッターでつぶやいたり、動画を見ていると「なんとなーく」一日が過ぎて行く。時には、大学に来ない大学院生まで現れる。こんな学生はほんの一部であるが、居ないわけではない。他方、上述したような課題解決型教育を実践し、その期待に応えられる学生を育てられた場合には、学生の興味は顕在化され、脳は考え始め、勉学意欲は向上し、考えることの好きな人「考える脳の持ち主」となる。こういう人は勤勉で、社会を幸福へと導いて行く人になれる可能性がある。だから、今こそ「考えることの楽しさを教える教育が、求められているのだろう」。「考えることの嫌いな脳」を「考えることの好きな脳」へと変えるための行動こそが教育なのだろうと思う。
「勉強」と「遊び」
「考えることの好きな脳」を育てるのに良い方法はあるだろうか。よく、「勉強すれば頭がよくなる。だから勉強しろ」という。一見、正しそうである。たしかに勉強すると脳には知識がたまり。知識がたまれば、考えるための素材が用意される。知識がたくさんあるからこそ、それを活用して人間生活に役立てることもできるし、人類に知的興奮を与えることもできる。しかし、それだけで十分だろうか。私はこれと同じくらい大切なのが「遊び」であると思う。「遊び」は幼少期に特に大切だ。「勉強」が人類の知的財産を受け継ぐ過程であるがゆえに受身的であるのに対し、「遊び」は能動的要素を多く含んでいる。脳は受身的要素だけでは十分には鍛えられない。小さい時から能動的に脳を使うトレーニングを「遊び」を通して積み重ねることが、能動的に脳を使いこなせる脳を作るために必要である。この能力は、現代の大学入試では測定することができない。したがって、よく遊んだからといって成績が良くなるわけでもなく、誰も褒めてくれない。だから、軽視されがちである。しかし、社会は能動的に脳を使うことを強く求める。なぜなら、会社なり組織なりが競争に勝って成功を収めるためには、常に初めて遭遇した問題を解決し生き残って前進する必要があるからである。したがって、「遊び」は教育の必須要素なのである。
テレビゲームは「脳を強くする遊び」か
「うちの子はテレビゲームに夢中で、ちっとも勉強しないんですよ。でも、遊びも必要だから、勉強もちゃんとするなら良いけどねと言ってるんですけど。」というお母さんの悩みを聞くことがある。テレビゲームは脳を強くする作用のない受身的「遊び」である。私の甥が3歳の時、「お兄ちゃんがお年玉で買ったゲームソフトをゲーム機にダウンロードしといたよ」というのを耳にした。そう言って、兄より先にゲームを楽しんでいた。多くのテレビゲームは3歳児でも一生懸命に取組めば楽しめるくらいに設定されている。それゆえに多くの人に買ってもらえるヒット商品となるのだろう。利用者が一定のレベルの速度とタイミングでボタンを押すことを習得すれば、それに見合った映像的刺激と達成感を得ることができるように作られている。以前、これとよく似た映像をテレビで見たことがある。京都大学の霊長類研究所で、頭のよいチンパンジーが壁のボタンを何回か押すと餌が出ることを習得し、その後はかなりの速さでボタンを押していた。このチンパンジーの脳を一回り大きくした程度の脳を目指すなら、テレビゲームも役に立つだろうし、たまに、脳を休めるために使うなら時間を区切って楽しむのも良いと思う。少なくとも必死になって攻略法を論じる価値のあるものではないとは思う。さらに、大人になってインターネットでお気に入りのサイトを眺めたり、ツイッターでおしゃべりをしたり、動画をなんとなーく見ているのもテレビゲームと大差のない受身的「遊び」である。夜中まで、ただテレビを眺めていて、寝る時刻になり、リモコンでテレビのスイッチを切ると同時に、顔の表情もなくなり脳のスイッチも切れるような、そんな脳を作ることになってしまう。